視盟將於6月11日於台北駐日經濟文化代表處台灣文化中心展出由策展人侯昱寬策畫的「『阮的故鄉南都』臺灣當代藝術-國的消解與家的重建」,集結六位優秀臺灣當代藝術家李若玫、廖烜榛、黃奕捷、李佳泓、王又平、林書楷。展覽以一首歌《阮的故鄉南都》作為展覽的楔子,一首在臺灣五〇、六〇年代樂壇中流行以日文歌重新填上臺語詞後發行傳唱的混血歌,歌詞講訴著年輕人離開臺南前去都市打拼的故事,在異鄉持續地思念著他生長、成長的地方,在這個展覽中被藉以言說著臺灣和日本兩地關係的幽微情愫。
「寶島舊府城,懷念阮的鄉里,自從離開來到異鄉已經過數年。」《阮的故鄉南都》離鄉背井的歌並不少見,特殊的是,在當時流行的混血歌曲中,這首原曲採用日本方言、演歌形式,充滿「異國情調」的歌同樣指涉了一處日本的南方。日治時代結束,國民黨政府統治後,臺灣有段時間流行將日本曲目重新編入歌詞,或許當時的流行也表現了臺灣在身份認同上的複雜,如不論國與國的認同,家與異鄉也同樣在多元的認同下顯得難解。
在這展覽中,藉由《阮的故鄉南都》內在與外在所建構的離散,試圖讓我們進一步地思考家國的追尋、身份的考古及認同的重塑。如從廣大敘事的正史中離開,重新以土地個人自身家史、地方史出發,或許更能從中理解複雜面向中所身處的時間與空間。
家國的離散意味著孤島,意味著某程度的不可言說,意味著我們在共通的經驗底下,那些細細麻麻急需被揭露卻無從揭露的過往。在一次次地打掉重練中,如同解謎般地重新回看我們的歷史,或許我們能進一步地探問,隨著國土、政治的轉變,是否家、故鄉的移動亦隨之轉變?在複雜難解的離散認同中,我們又如何牽引出一條隱形面對歷史的線?藉由地點?藉由血源?或是在種種想像中編造、重組的新的「家史」。
此次展出的藝術家中,他們中心均指涉著家的追尋,經由尋根或是尋找認同,或是在虛構中重新建構認同,在創作不斷地探詢著「小我」的存在,藉此搖晃著那「大我」的存在。
「別說出去了,在我家池塘裡面,游著一群會噴水的魚兒們。夜裡來吧,夜裡來吧。」《南国土佐を後にして(離開南國土佐後)》《阮的故鄉南都》的原曲《南国土佐を後にして》,歌詞同樣訴說著離開故鄉的土佐人,在外想念著家鄉。我們如何稱故鄉為故鄉?家又為何物?在兩個不同的南國,在兩首如同雙胞胎的歌曲的牽引中,此次的展覽想像著家的追尋、家的和解、家的重構或許是可能的。
策展人:侯昱寬 / HO, Yu-Kuan
1983 年生於臺南。臺灣國立臺南藝術大學-藝術史與藝術評論研究所碩士。現任獨立策展人和藝術評論家。曾任絕對空間藝術工作室藝術行政、《今藝術》雜誌(AROCO monthly magazine)特約採訪編輯。策展經歷包含「赤誠/赤城」策展人(與楊佳璇共同策展)、「當鱷魚吞下時間」策展人(與楊佳璇共同策展)、2015臺灣藝術家博覽會主題策畫「畏黑之鼠」策展人。
展覽日期|2016.06.11-2016.07.31
展覽開幕|2016.06.11 2:00 pm
座談時間|2016.06.11 3:10 pm
參展藝術家|李若玫、廖烜榛、黃奕捷、李佳泓、王又平、林書楷
策展人|侯昱寬
座談會與談人|策展人、參展藝術家、潘逸舟
展覽地點| 台北駐日經濟文化代表處台灣文化中心
展覽地址|台北駐日経済文化代表処台湾文化センター,105-0001 東京都港区虎ノ門1-1-12 2F
企劃|台灣視覺藝術協會(AVAT)
翻譯/逐次通訳|池田リリィ茜藍
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「私のふるさと南都」台湾の現代アート―国家の解体と拠り所の再建
▶会期:2016年6月11日(土)-7月31日(日)
▶オープニング・パーティ/OPENING:6月11日(土) 14:00-15:00
▶オープニング・トークイベント/LECTURE:6月11日(土)15:10-16:40
|キュレーター|:侯昱寬(ホゥ・ユークァン)
|出品作家|:李若玫(リ・ルーメイ)、廖烜榛(リャォ・シュエンジェン)、黃奕捷(ファン・イージェー)、李佳泓(リ・ジャーホン)、王又平(ワン・ヨォピン)、林書楷(リン・シュカイ)
|出演|本展担当キュレーター、出品作家、潘逸舟(ゲスト)
▶会場:台北駐日経済文化代表処台湾文化センター (〒105-0001 東京都港区虎ノ門1-1-12 2F)
▶企画:台湾視覚芸術協会
▶翻訳/逐次通訳:池田リリィ茜藍
一度も触れたことのない過去とまだ見ぬ未来のその先で、大海原と陸地はどのように親密に結ばれ、結び合うのだろうか?人類が集落を形成し始めた太古の昔、または私たちが国土の構築をし始めてから、土地というのは何時から意義を持つようになったのだろうか?近代化以降、私たちは絶え間なく自分と他人との間に何層もの後ろ盾、壁、縁、境界を増やしてきた。私たちは「我々」になり、「私」となり、彼(彼女)とあなたをも分け隔ててきた。血筋は国家の境界を揺るがし、政治は家族間の境界をも揺さぶった。家族と国家、国と国の間で揺れ動いているのが、今の私たちだ。
はじめに、ある歌を本展覧会の趣意として引き合いに出したい。‘五〇年代、‘六〇年代における台湾の音楽シーンは、日本語の楽曲に新たに台湾語の歌詞を付けてカバーするのが人気を博し、台湾国内で発売されては広く歌われていた。『私のふるさと南都』もその一曲である。故郷の台南を離れ、若者が都会で奮闘する物語を描いた歌詞は、他郷で自分の生まれ育った場所への想いを伝えている。
「宝の島よ古の府城よ 懐かしき私の故郷 異郷の地に来て何年もの月日が過ぎ去った」―『私のふるさと南都』。遠く離れた郷里を想う歌は少なくないが、その頃台湾で数多く歌われていた混血歌のなかでも、この曲はまた一味違う。期せずしてこの原曲『南国土佐を後にして』も日本語の方言と演歌の形式を用いた「異(南)国情緒」溢れるものであり、同じく日本のとある南方の地にまつわる歌であるからだ。日本統治時代の終焉を迎え、国民党政府が国を治めた後、台湾では暫くのあいだ、日本語の曲に新たに歌詞を付けるのが流行った。その風潮は、当時の台湾における帰属意識や自己認識の複雑性を物語っている。国家のアイデンティティだけでなく、故郷と異郷というのも同様に、重層的なアイデンティティによって一筋縄では理解し難い様相を帯びている。
『私のふるさと南都』の、ウチとソトから構築された離散は、家国への探求、身分についての考究、アイデンティティの再建について深く考えるための、私たちの手がかりになりうるかもしれない。大文字の正史ではなく、個人の家族史や郷土の地方史に立ち返れば、複雑な横断面の中にある、自らが身を置いてきた時間と空間についても、より理解を深めることができるはずだ。
家国の離散とは孤島を意味し、語ることのできない度合い(またはどれくらい語られなかったのか)を意味する。そして、私たちに共通する経験の奥底で、早急に明らかにしなければならなかったが、葬られてしまった細かくて煩雑な過去たちをも意味する。「打開」と「再考」を繰り返す中で、歴史は紐解かれ、見つめ直されてきた。私たちは更にもう一歩進んで、問い直せないだろうか。国土や政治の変遷によって、故郷も拠り所も、それに伴い移り変わるものなのか?複雑で難解な、離散するアイデンティティを通して、私たちはどのようにして歴史と向き合うための糸口を手繰りよせられるのか?それは場所によるのか?それとも血筋から来るものなのか?あるいは様々な想像の中で、新しい「家史」を編纂し、組み直していくところにあるのだろうか。
本展覧会のアーティストたちは、ホームたるものへの探求を軸に、アイデンティティの受容やルーツ探し、またはフィクションの中から新たな自己承認を構築している。創作活動を介し、絶えず「小さな私」の存在を探索し、それを持って「大きな私」という存在を揺さぶっている。
「言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい」―『南国土佐を後にして』では、同じくふるさとを遠く離れた土佐の人が、異郷で自分の生まれ故郷を思う気持ちを歌っている。私たちは故郷をどのようにして故郷たらしめるのだろうか?ホームとはなにか?異なる二つの南国、双子のような二曲の歌に導かれた本展覧会では、追い求める自分たちの居場所、和解する私たちのホーム、拠り所の再建といった可能性を想像しているのかもしれない。